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エルメスでは定番のバーキンが50万円以上するにもかかわらず人気が集中し、エルメスのプレミアムブランドバーキンが入手が困難な状況が続いている。これほどの人気を得ているエルメスとは、いったいどのようなブランドなのか?その真髄を探すことにしました。

エルメスの歴史

2007年、エルメスの店舗は世界中に257店となった。ロケーションは国際都市のショツピングエリア、郊外のショツピングモール、五つ星ホテルのアーケードや国際空港のなかだ。

だが、なんといっても素晴らしいのは、フオーブルサントノレ24番地、コンコルド広場からすぐの場所にある直営旗艦店だ。6階建ての本社ビルにある店舗は、19世紀の百貨店のような重厚な店構えで、鉄とガラスの重々しい扉や、すリヘったモザイクタイルの床や、アールデコ調の照明器具が古き良き時代をしのばせる。

壁には18~19世紀の乗馬風景を描いた版画や絵画がかかっている。店内にあるルイー5世の雄々しい騎馬姿を描いた肖像画は3枚連作のうちの1枚で、残りの2枚はルーヴル美術館に所蔵されている。

この店がにぎわっていない日はない。シックな女性店員が、日本人の団体客やパリジェンヌの前で、シルクのスカーフをつぎつぎとドラマチツクに広げて見せる。注文服の仕立師がスーツのために採寸し、帽子職人が結婚式や競馬場でかぶる帽子を注文する客のサイズを測っている。中2階では宝飾専門の店員が時計を合わせ、カフスを選ぶ客にアドバイスし、店の奥では鞍売場の男性店員が、バッグと同様に注文・手づくりされる馬勒や鞍を紹介している。

エルメスは1837年の創業以来、4万3000以上の鞍をつくってきた。採寸方法は1世紀以上にわたって受け継がれている。裏階段から鞍をつくるアトリエにあがり、そこに置かれた革製の木挽き台にまたがって測る方法だ。エルメスの8人の鞍づくり職人たちは牛革のエプロンをつけ、巻き尺を手に採寸する。

その光景こそ、競合する高級ブランドとエルメスが一線を画するものだ。リチャード・アヴェドンの撮影による2004年秋の同社のキャンペーンでは「何も変わらないが、すべてが変わっている」というコピーが打ち出された。

店の中央部には、ジャン・ルイ・デュマが「エルメスの魂」と呼ぶ部屋に通じる階段がある。デュマの祖父にあたるエミール・モーリス・エルメスがかつてオフィスに使っていた部屋で、現在はエルメス・ミュージアムになっている。

予約制で、エルメスの文化遺産担当部長であるメネハウルド・ド・バゼレールに案内されて見学する2部屋のミュージアムでは、まだ人々の移動手段が馬で、高貴な生まれの富裕者の生活が洗練の極致にあった時代がしのばれる。

初代のティエリー・エルメスは、ケルン市に近いライン川左岸の町、クレフエルドで宿屋を経営する両親のもとに生まれた。当時その地はフランス領で、6人兄弟の末ら子だったテイエリーもフランス国籍を持っていた。 一家はプロテスタントで、カトリックが支配するョーロッパではマイノリティとして追害された。

ジャン・ルイ・デュマは「迫害されたおかげでエルメスは高級品事業で成功できたのだ」と言う。自助努力せざるをえなかったおかげで、一家は商人として成功する方法を学べたというわけだ。

クレフエルドはロシアヘとつながる街道沿いにあり、ティエリーは子どものころナポレオンの軍隊が意気揚々とモスクワに進軍し、敗北した負傷兵が引き揚げる光景を目撃したという。長兄のアンリはナポレオン軍に加わって1813年スペインで戦死。両親と4人の兄弟も病死して、ティエリーは15歳にして孤児となる。

1821年、彼はドイツ人の友人とパリまで徒歩でのぼった。やがて馬の飼育地であるノルマンデイに落ち着き、ハーネス製造の商売を学び、結婚して3人の子どもをもうけた。1837年、彼はパリのマドレーヌ近くでハーネス製造の作業所を開業、5年後にキャプシーヌ大通りの角に移転した。

今日、そこにはオランピア劇場が立っている。以下はド・バゼレールの解説である。「当時、その地域はとてもコスモポリタンだつたのです。カフェには王族、宮廷貴族や高級娼婦たちが大勢つめかけ、なかにはアレクサンドル・デュマが書き、ヴェルディがオペラにした『椿姫』のモデルになったマリー・デユプレシスなどもいました。彼女はパリのグランブールヴアールを、エルメスのハーネスをつけた幌つき馬車に乗って移動したそうです。」

1859年、ティエリーはノルマンデイに隠退し、会社を2番目の息子、シャルル・エミールに譲った。当時、パリには1万9000頭の馬がおり、シャルルは馬の暴走を防ぐしかけなど、馬と乗客の両方を守るための種々のハーネスを考案した。1880年には、事業の場所をこぎれいな2階建ての建物に移した。

それが、現在の店があるフォーブルサントノレ24番地である。1階に店を開き、アトリエを2階に配置し、現在ミュージアムになっている屋根裏部屋に長男のアドルフが住んだ。シャルルはハーネスだけでなく、鞍や競馬のジョッキー用のシルクなどを製造するためにアトリエを拡張した。

1902年、あるスポーツ紙の記者は「エルメスはパリの偉大な馬市だ」と書き立てた。20世紀の始まりは、ルイ・ヴィトンと同じくエルメスにとってもターニングポイントだった。1902年、シャルルは長男のアドルフとエミール・モーリスに事業を譲った。エミールは流暢な英語を話し、海外旅行が今ほど盛んではなかったこの時代に世界各国を旅してまわった。

彼はアルゼンチンで、ガウチョ(南米のカウボーイ)が肩から提げた鞄に鞍を入れているのを見て、さっそく鞍用バッグを考案し、サック・オータクロアと名づけて売り出した。ロシアを旅した時にはニコライ2世からハーネスと鞍の注文を取ってきた。

第1次世界大戦中、北米に出かけた彼はジッパーという発明品に目を留めた。さっそくヨーロッパでジッパーの製造特許を取るとエルメスのデザインに取り入れ、現在はボライドという商品名になっている自動車に積める鞄をつくつた。

社屋を改装して6階建てにし、古い屋根裏部屋を自分のオフィスにして、店舗の南西側の角に大きなショーウィンドウをつくった。エミールは、友人のルイ・ルノー(自動車メーカー、ルノーの共同創業者)やエツトーレ・ブガツティ(一世を風靡したイタリアの自動車メーカーの創業者)の協力を得て、自動車向けの商品を開発した。

ブガッティの後部に積めるトランクや、地図を入れるためのレザーの紙入れなどだ。同時代のアーテイストや職人たちの、たとえば家具デザイナーのジャン・ミシェル・フランク、靴職人でメーカーのフラテッリ・ジャコメッティ、画家のソニア・ドローネーにデザインを依頼し、注文服やベルトといった新しい商品ラインを開発し、フランスのおしゃれな高級リゾートに販売網を広げた。

カンヌのブティックは、F ・スコット・フィッツジェラルドの小説『夜はやさし』にも登場する。戦時中、事業は縮小した。ドイツ軍の占領期間中、多くの店と同様、エルメスでも「商品はありません」と掲示していた。実際に原材料が不足していたこともあるが、彼らはナテスには売るつもりがなかったのだ。

紙や包装材料も品薄だったが、唯一入手できたのが鮮やかなオレンジ色で、エルメスはそれで箱と紙袋をつくつた。結果、一夜にして、それがエルメスの色となったのである。

1945年、エミールは19世紀の芸術家、アルフレツド・ド・ドルウーが描いた、馬の前に立つ馬丁が馬車の扉を開けている絵から起こした図柄を、会社のロゴとして採用した(その絵は今もミュージアムの彼のデスクの背後の壁にかけられている)。数年後には、シルクのネクタイと最初の香水、オー・ド・エルメスを商品ラインに導入する。

周知のとおり、2つとも今でも柱となる商品である。1951年、心臓発作でエミールが80歳の生涯を終えると、義理の息子であるロベール・デュマが後を継いだ。ロベールが狙ったターゲットは、ブルジョワ階級のジェットセット族だった。

妊娠を隠すため、サック・ア・クロアと呼ばれていた大型のバッグを持っていた姿を写真に撮られたモナコのグレース公妃の名前にちなみ、そのバッグをケリーと名づけたのも彼だ。

それから半世紀後の現在も、ケリーはエルメスでもっとも人気のあるアイテムのひとつである。しかしながらロベールのもっとも重要な功績は、エルメスを21世紀にふさわしい会社にすべく息子のジャン。ルイを教育したことだろう。ジャン・ルイ・デュマはフランス人がよく言うウン・グラン・ムッシュー(大人物)だった。

高度な教育を受け、傑出した才能をもち、人を惹きつけてやまない。「オスカー・ワイルドは『エレガンスは力だ』と言った」と、彼はよく口にしたが、まさに彼こそが力があるエレガントな男だった。

1938年、ジャン・ルイがロベールの6人中4番目の子どもとして生まれたときには、デュマ家はレザーグツズをしかるべき客層に売っていただけでなく、彼ら自身がしかるべき階層に属する人々になっていた。彼はリセ・フランクリンという上流階級の子弟が通うイエズス会経営の学校に通い、エコール・ポリテクニークに進んで政治学、経済学の学位を取得した。

祖父エミールのように、彼も世界中を旅した。1960年代はじめに、ギリシャ生まれの妻レナとともにくたびれたシトロエンを運転し、シルクロードを走ってインドまで行ったこともある。

1963年、父からフアツション業界の販売を学ぶように言われ、ジャン・ルイはニューヨークでブルーミングデールズのアシスタント・バイヤーとして働いた後、コンサルタントという役職で家族経営の会社に加わる。そのころ高級品ビジネスは瀕死の状態だった。石油危機、不景気、それに高い失業率が重なり、消費は落ち込んでいたが、さらに悪いことに、ロベールは会社を活性化する手を打とうとしなかった。

「ロベールは非常におとなしく、商品を宣伝もせず、自分から売ろうともしない世代の人でした」とド.バゼレールは言う。常連客が来店して回っていってくれるまで、じっと座って待っていたが、客は来ず、ある年などは、売上げ激減のため2週間アトリエを閉めざるをえなかったほどだった。

そこへ転機が訪れる。1976年、セクシャルな写真を撮る写真家、ヘルムート・ニュートンのおかげで、思いがけず売上げがはねあがったのである。

ニユートンはエルメスに憧れていた。フオーブルサントノレの店は「世界一高価で豪華なセックスショップだと思った」と自伝に書いている。 「ガラスケースの中に、拍車、鞭、レザー製品や鞍の素晴らしいコレクションがデイスプレイされている。女性店員はグレイフランネルの巻きスカートをはき、ブラウスは首元までボタン留めをして胸には乗馬姿をかたどつたブローチをつけている。

まるで厳格な教師のような格好だ」ニュートンはエルメスにオマージュを捧げ、パリのオテル・ラファエルでエルメスを特集した一連の写真を撮影し、『ヴオーグ』に掲載した。

その写真はとんでもなかった。もっとも有名なのは、ベッドの上に四つん這いになり、背中に鞍をのせたモデルに、乗馬ズボンに拍車うきの乗馬靴を履き、上半身は黒いレースのブラをつけただけのもう1人のモデルがまたがっている、というものだ。

「『ヴオーグ』の写真を見て(ロベール・デュマは)気分が悪くなって倒れたよ」とニュートンは言う。「幸いなことに立ち直ちたけれどね」 ロベールが2年後に病死すると、満場一致でジャン・ルイ・デュマがトップに選ばれた。いとこのパトリック・グランドとベルトランド・ピューチの手を借りて、ジャン・ルイ・デュマは会社を立て直した。

魅惑的な新デザインを打ち出そうとアーティストを雇ってシルクスカーフの事業をテコ入れし、販売員には新しいスカーフの結び方を研究させた。スカーフは、ベルトやホルタートップにもできるし、バツグに結んで華やかな彩りを出すこともできると客の前で実演してみせたのだ。

また、外部の会社に広告キャンペーンを委託し、エルメスとしては初めての試みだった。それまで1人しかいなかった広報部門を拡充した(2006年現在、パリだけで16人のプレス・アタツシエが いる)。

1980年にはフアツション専門学校を出たばかりの19歳のエリック・ベルジェールを抜櫂し、沈滞していた婦人服部門の活性化をはかった。そして、バッグ部門もよみがえらせようとジャン・ルイ・デュマは決意したのだった。